藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田正盛(まさもり)は、家光から重用されて下総国(しもうさのくに)佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信(まさのぶ)が跡を継いだ。しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。正信の嫡男・堀田正休(まさやす)は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国(こうずけのくに)吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。
第3代藩主・堀田正陳(まさのぶ)は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。その領地は坂田郡16か村のほか、他郡21か村に及んだ。現在は、陣屋跡の碑があるのみである。第5代藩主・堀田正穀(まさざね)の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国(はりまのくに)に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民(まさたみ)は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。そして第9代藩主・堀田正養(まさやす)の時代に明治維新、次いで版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で、宮川藩は宮川県となった。その後、長浜県、犬上県を経て、明治5年(1872年)に滋賀県に編入された。そして明治7年(1874年)に村の統合が行われ、宮川村(宮と川があった)と下司村(下司が住んだ(田畑があった))とが統合され「宮司村」となり、明治22年(1889年)4月1日 町村制の施行により、10箇所の村が「南郷里村」となった。その後昭和18年(1943年)4月1日に1町と6村が合併して長浜市が発足し、坂田郡より離脱。
下総国・・・(しもうさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。現在の千葉県北部と茨城県の一部。東海道の一国。
石・・・(こく)とは、米の量を表す単位です。江戸時代、武士の給料は米の量(石高)で表され位が上がると与えられる米の量が増えました。一石は、米俵2、5俵分。一俵は約60kgですから一石は約150kgとなります。だから、「一万石」=150kg×1万=1500000kg=1500tということになります。また、「一万石」とは、一万人の成人男性が一年間に食べる米の量という意味にもなります。
上野国・・・(こうずけのくに)は、東山道に属する。現在の群馬県。
近江国・・・(おうみのくに)は、東山道に属する。現在の滋賀県。
佐幕・・・(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。
版籍奉還・・・(はんせきほうかん)は、明治2年(1869) 日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つ。諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。
知藩事・・・(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。
下司・・・(したづかさ)(「げし」ともいう。中世以後,現地で荘園の事務を司った荘官の下級役人をさす。それに対し中級役人を中司,上級役人を上司といった。荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない一定規模以上の私的所有・経営の土地である。
次に神輿について少し触れてみましょう。
明和5年(1768年)講を結び山王神輿を作ることになり、村内六十六軒に奉賀帖を廻し基金を積立て、5年越しで安永8年巳亥(つちのとい)春に伊部の細工師 泉 甚兵衛に請け合せることに定まった。天明2年(1782年)白木の神輿の作成にかかり、その後国友の塗師 甚助に塗りに出している。天明5年(1785年)3月3日に種々の辛苦の末、村民一致協力のもとに17年の歳月をかけて出来上がった。
神輿の重さは、これまで誰も計ったことはないが、およそ1,500kg(約四百貫余)あると言われている。なお、台輪寸法は1.57mで、内高欄寸法は1.29 mを有する。また、蕨(わらび)手下の宝鐸櫻珞一垂(ほうちゃくようらくひとたれ)は7kgの重さである。神輿の屋根は金箔漆塗りで、堀田家の文様「たて木瓜」で葺かれ、その上に宝珠を、その下には社紋の「三つ巴」と「橘」を敷き、四方に唐破風が取り付けられているが、これは、泉 甚兵衛の壇独特のものであり、浜仏壇の初期の簡素な仏壇形式を取り入れたものである。
宝鐸・・・(ほうちゃく)は、堂塔の軒の四隅などに、飾りとしてつるす大形の風鈴
櫻珞・・・(ようらく)は、お仏壇を美しく装飾するとともに、魔除けの役割も果たすといわれている仏具です。
宝珠・・・(ほうじゅ)は、仏教で説く宝の玉。龍王の脳中より出た、上部先端が尖って火焔を伴う玉のことで、仏法ではこれを得ることによりいかなる願いも適うといわれている。
唐破風・・・(からはふ)は曲線を連ねた形状の破風板を、屋根に付けたもの。屋根本体の先っちょを丸く盛り上げた軒唐破風と、出窓のように独立して葺き下ろしの屋根の上に置いた向唐破風(むこうからはふ)の2タイプがあります。
最後に日枝神社にも触れることにしましょう。
御祭神は、「大山咋命(おおやまくいのみこと)」・「天津児屋根命(あまつこやねのみこと)」で、御神紋は、「三ツ巴 橘」です。
御由緒は、天平11年(739年)行基建立の真言宗総持寺の守護神として、天津児屋根命を勧請(かんじょう)し、永久元年(1113年)大山咋命を祀り以後、山王宮と称し、宮川、下司、大東、室、大辰巳、勝、四塚、七ケ村の総社として神事祭礼は共同にて執行し、佐々木、京極氏が北近江の守護職のとき代々の当主、当社を尊崇し、武運長久を祈願し、神田を寄進した事蹟がある。元禄11年(1698年)堀田正休(まさやす)が一万石で当地に入封し、宮川陣屋を設け、その孫の堀田正陣(まさのぶ)は若年寄の功により、三千石を加増され、その正陣は享保6年(1721年)には、社殿を造改築して領内繁栄を祈願した棟札があり、堀田家が陣屋を構えてから殊更に祭礼を盛大に行ったと伝えている。天明4年(1784年)に村人が長い歳月をかけて浄財を集め「山王神輿」(藤岡和泉利盈(としみつ)作)が奉納され、その屋根には堀田家の文様を並べ、金箔漆塗りで葺かれている。享和2年(1802年)には、同じく藤岡和泉利盈作の曳山「颯々館」も建造され、文政12年(1829年)には、この曳山の見送り幕に堀田正民(まさたみ)みずから「龍の画」を画き、これを寄進し、天保初期には、曳山の楽屋襖に岩駒晩年の作「岩上雄雌の虎」の襖絵も奉納される。また正民は天保8年(1837年)に石灯籠一対、堀田正誠(まさみ)も社前に春日灯籠一対の奉献、何れも現存する。
祭礼は、四月申の日(八十八夜に近い申の日)であったが、明治の末より五月二日に行われていたが、その後祭日を利用して五月四日に行われている。神輿は子供武者行列と共に御旅所より総持寺仁王門まで渡御し、曳山颯々館の上では、過去に数回子供歌舞伎が奉納されており、昭和27年に歌舞伎が奉納されたのが最後となり、今では御旅所に飾られる。大正8年(1919年)8月郷社となる。
郷社・・・(ごうしゃ)は、旧社格の一。県社の下,村社の上に位置づけられ,地方官の管理下にあって奉幣を受けた。1郷で首位にある神社が指定された。
宮川祭礼保存会
本会は、宮川(滋賀県長浜市宮司町)の祭礼を継承し、保存していきたいと思う方の任意団体です。
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